昭和五十六年十二月六日 朝の御理解


御理解第九十節
「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる」


 先だってから頂いておりますように、道必ずありである。ですから、この道を求める。その与えられた道を行ずる。そこに神様をいよいよ信じて疑わない信心の確立がなされてくる。そこん所からの信心というかおかげというのは上から下へ水を流すというような表現で、けれども下から上へ水を流す、匹夫の凡夫からの事だからむつかしいというふうに云ってありますけれども、私はそういうふうに道必ずありでありその道を体得し又は分からしてもろうてその道を行じていく限り、その道は無尽蔵、限りないおかげにも道にもつながらなければならない、してみるとそこから開けてくるおかげというか道というものはもう限りがなくてしかも上から下へ水を流すようにスムーズさというものが生まれてくると思うです。それが信心の徳だとも思います。
 辛抱して行く間には徳が受けられられる。その辛抱のその焦点も本当な事が分かっての焦点でなからなきゃいけないという事ですね。昨日もここでしたね、確か御理解。そこにはっきりした本当の目当て本当のいうなら的というかね、弓矢の話が出ましたが昨日は。本当の的というものを見定めてからの稽古なんですね。昨日は喜びに喜んで開けた道、だから只の喜びではいけない有難いなあと云うてるだけ、有難くて有難くてというもんでなからにゃでけん。
 その有難くて有難くてというのが次の信心のまあ信心の情熱ですから、それが不可能を可能にしていくとでも申しましょうか、開けんはずの道が開けるとでも申しましょうか、それは本当の道に出るから教えを頂くからそこにひとつの宗教的感動と申しましょうかね、有難くて有難くて本当に喜びに喜んでと、このいうならば勇ましい元気な心も生まれてくるわけですね。どうしてもあの信心の修行が楽しゅうもの有難いものになってくるその手立てをね、体得するその道をつけていかなきゃならない。
 昨日は壮年会でございましたが、皆今度の親教会の記念祭を拝ませて貰い、また今年はあっちこっちの教会の記念祭が続きましたので総代さん方みんなそちらの方へ、久富正樹先生なんかは三ヶ所も記念祭におかげ頂いたというふうに云っていましたが、そこはそこなりにね記念祭ともなると教師信者を問わず一生懸命になって記念祭記念祭というその一生懸命のものになってきますから、そこなりにやはりおかげを受けておるという事ですね。
 だからその記念祭をあれほどまあ賑やかに盛大におかげ頂くけれどもそう、大体は記念祭を節年という位だからそこから芽が出たりそこから枝が出たりしなけれじならんのに、それでまた元に戻ってしもうて何十年という経歴をもっとる教会がいつも同じようないうなら進展がないと、これは教団全体にもそれが云えるのではなかろうかと、昨日は秋永先生も来とりましてまあ広い立場と云うですかね、連合会とか色々立場がもう合楽の信徒総代とか信徒会長というだけでなくて何々連合会なら連合会会長といったような御用を頂いておりますから、まあ本部の有り方なんかも誰よりもよく分かるわけです。それでいてもう来年、再来年が百年祭ですから百年祭を目指して様々な活動が展開されておってこの来年なんかはもう兎に角会議から会議でもういっぱいですという話をしてました。百年祭を目指してね、色んな会合やらもいっぱいあるわけでしょう。
 ですから、それだけのひとつの熱意を見せますからやはり百年祭は確かに盛大に行なわれる事でしょう。けれどもその百年祭を迎えてその後にどれだけそこから発展の道が開けるかというとこれは疑問であり、まあ過去の事からいうてひとつそこからの繁盛という事にはなっていないということ。結局その根本的な所を押さえての会議会議であったり共励なら共励でなからなければ駄目だという結論になったわけですけれどもね。でまあ皆さんがよその…記念祭毎におかげを頂いてでまあそこなりにまあひとつの御比礼というか、盛大におかげを頂いとるけれどもそれから先の今日の御理解で私が云おうとしておる所はね、下から上へ水を流すようにむつかしいのだけれどもね、道に基づいて本当の道を教えて頂けばそうではない。いわゆる上から下へ水を流すようなスムーズさが出て来て、根本を間違いのない所を押さえてのそれであったら広がりに広がっていくという働きが起こってこなければいけないという事なんです。
 合楽の場合は、なら合楽にまいりましてからでもまあ来年が十五年の記念祭ですけれども、まあ記念祭記念祭というよりももうそれこそ日勝り月勝りね、少しずつではあるけれどもその進展をしております。今度の一日の月次祭でも四千、毎月少しずつではあるけれどもそのお届け数が多くなってる。四千何ぼです。ね、というように月々でもじゃけん年々歳々、五年祭という記念祭と云わんでも年々こうそれこそ高い所から低い所へ水が流れていくようにこう繁盛のおかげを頂いておるし、その一途をたどっとるという事がですどういう事かというと合楽理念という根本的な絶対なものを基盤にしておるからだという事になりました、ね。
 だからその基盤なしにです、只一生懸命に神様にお願はする。一生懸命にお縋りする。記念祭ですからどうぞどうぞと云うて願うて信者一同が打って一丸となって記念祭を仕えますから、確かにその記念祭は賑やかに盛大に出けておるけれどもならそれまでの事であって、また記念祭が終わったら元に戻ってしかも何十年という歴史を繰り返しておるにすぎない。これはな教団的にもそれが云えるんだ。百年祭というも来年なんかはそれこそまあ幹部の人達の場合になってくると昨日の秋永先生が云ってましたようにもう兎に角、会議会議で渦まっておるというです。百年祭を目指して目指してと、だからそういう精進をするから百年祭は見事に立派に出来るかも知れんけどもその、なら百年祭からその先に繁盛していかなきゃならんのにまた元に戻ってしまうという事。これはならある教会の上にもそれが云えるという事から。
 ところが、合楽の場合はそれが反対にこうやはり日勝り月勝り年勝りにこうおかげを頂いていっておる。それは合楽理念という絶対の根本理念に基づいてのおかげを頂いておるのですから、これはもう高い所から低い所へ水が流れるようにスムーズに繁盛していく事であろう。又繁盛しておるという事であります。ね、ですからねならその正樹先生でしたか誰か云ってましたが、兎に角どこへ行ってお祭りを拝んでもです、先生方のお話頂いてもです兎に角合楽で説かれるところ、合楽理念の有り方いわゆるスケールが違うという事を云ってますね。私もそれを感じます。
 昨日、竹内先生が今度ブラジルのそれこそ一流新聞に掲載されるというまあ宗教欄に掲載されるという合楽の芯、合楽理念についてという記事をまとめておりましたから昨日聞かせてもらいました。まあ何とはなしに合楽理念合楽理念と言い出してまだ年数が経っておりませんのでまあ何とはなしに荒削りというか、いくら絶対の助かりの理念というてもまあその絶対なものに突入したというか、入ったというだけであってこれから又限りなく垢抜けしていく事でしょうけれども、何とはなしに泥臭いね荒削りだねというて申しました事でしたけれどもそういう働きとてもやっぱそうです。
 いわゆる南進介である。南の方へ道が開けるぞと神様がおっしゃりゃ宮崎の地にああいう広がっていくだけではなくてですね、世界の南である所の南米の地に広がっていこうとしておる。それがなビルグイ市という小さい町の、だけでなくてこうあちらこちらにも段々、分教会が出けていくだけではなくていわゆるブラジルの一流新聞が合楽理念を取り上げようというのですからね。もうその拡がり方というものがね、それこそ高い所から低い所へ段々水が流れていくような勢いでまあ拡がっていこうとしておるのです。
 そりゃ根本的な絶対なものをふんまえてからだからというふうに私は昨日申しました事ですけれども、なら皆さん一人一人もです、どうしても合楽理念を根本的なものとしての日々のおかげ、どうぞよろしくお願いします、おかげ頂かせて下さいという願って願っておかげ頂くならば○○教会じゃないけれども、成程記念大祭は見事に出けたけれども記念祭のおかげ頂くだけであって、記念祭を境に広がっていくという事がない。
 日々皆さんがお取り次頂いてどうぞどうぞとお願いはするおかげを受けるね、ならそのおかげがね皆さん自身が合楽理念に基づいてそこを根本としての広がりという事にですねつながっていかないと、今日皆さんに私が云うもうそれこそ高い所から低い所にもう放っておいても自然に育つようなおかげになってこないと。そこを教祖はまあ辛抱して行く間に徳を受けるというふうに云っとられますけれども、その辛抱しながら徳を受ける事が絶対なものをふまえての徳を受けるでなからなきゃ駄目だという。親一代で終わってしまっては本当の子孫繁盛という事になってこない。どうでもその合楽理念をいわゆる根本としたものでなからなきゃいけないね。
 合楽の信心というか、教えというものはその日その日のいうならば活動力というかね、いわゆる活動の源泉になるようなお話を日々頂いておるのですから、それを本当に頂いたら本当にいうならば合楽理念の実験実証ですから必ず実験するから実証が生まれてこなんはずです。先だって文雄先生所の家内です、良江さんと云いますが最近は日参のおかげを頂いとります。御祈念中に先だって頂いたのがね、グリコ一粒千メートルと頂いたそうです。大体そういうようなあのなにかあるでしょう。グリコの宣伝文句でしょう。あれはグリコ一粒三百メートルというんだそうけども、良江さんが頂いとるのはグリコ一粒千メートルと、どう思いますか。
 皆さんが合楽で頂かれる所のですよ、いうならばあの御理解というものがね、例えばそりゃグリコ一粒たった一言でも良いからね、その気にならせて頂いたらいうならば元気が出るのです。ね、私は昨日ね喜びに喜んでというその喜びというのが私は本当の宗教的感動だと思うんですけれどもね、その宗教的その感動というものがですよね、一粒のグリコを頂いたら千メートルも走れん所が走れたというような元気な心をもって喜びに喜んでという事になるのじゃないかと思うんです。
 昨日、文雄先生がお話してましたが、例えばまあある教会である先生のお話を頂いた。本当に久しぶりに感動を覚えたと涙がこぼれるほどであったと、私がそういう感動を覚えた時には必ず仕事の方にも有難いものがこうつながっていくのにもかかわらず、今度だけは反対な事へ反対な事へとなっていったち云うんです。ね、そして何十年前か何年前でしょうか。あの福岡の吉木辰次郎というもう亡くなられましたけれども先生のお話を頂いた時にね、例えば秋永さん感動するというてもですね、いうなら浪花節を聞いてもいうなら落語を聞いてもですやはり涙がこぼれるような事があろうが。その感動じゃおかげにはつながらんちいうて教えられたという事を昨日聞きましてね、ほな○○先生のお話を聞いて感動した。感動したけどもその感動はおかげにつながってなかった。してみるとそれはいうなら只の話であって本当のいうなら今日あたり皆さんに聞いてもらおうとする本当なもの、ね。いうならば本当に合楽理念から生まれてくるような話ならば、ほんなら私の話を聞いて感動するならばですそれは必ずおかげにつながるという。
 はあなかなか良か事ば聞いとったな、確かにそうですばい。どこでどげな良か話を頂いてもその先生が話が上手というだけでは、先だってもあの佐田先生が話しておりましたが、もう日本一という事お道のお話の先生といわれるくらいな先生が福岡に見えたんですね、ある教会の記念祭にそりゃーもう本当に時間を感じない位におもしろうおかしゅう悲しゅう話しなさるね、それこそ話家の話を聞きよるごたねけれどもなら後に残るものはなかったという。そん時は笑ったり泣いたりして聞きよるけれどもね、いうなら浪花節聞いてから泣いたり笑ったりしよっとと同じ事。
 だから合楽の場合はそうじゃないて、私、神愛会の時に昨日一昨日ですたいね一日の月次祭のお話を聞かせて頂いてですね、何か知らん自分が話しとりながら自分の話じゃない。あるいうならばその宗教的感動というものが湧いてくるんですね、それこそグリコ一粒千メートルというものが心に湧いてくるです。合楽で頂かれたものによっていうならばそれを実験実証していったらです、そういう信心が積み重なっていくならばですね、いうならば下から上へ水を流すようなむつかしい事ではなくて、上から下へ水を流すようなそういう信心を基盤としてお互いがおかげを頂いていく事になればですね、放っておいても下へ下へと水が流れていくようにね、只植木なら植木を植えとけばね放っておいても自然に枝葉が茂っていくようなおかげが頂けるのが私は合楽理念だと思います。
 ね、そういう大切なものですから日々のなら御理解の中からね、せめてグリコ一粒のじゃないけどもね、そういうようなものは一粒づつでも身に付けていく。ひとついうなら姿勢というか構えを作っての信心の稽古でなからなけりゃいけない。どうぞどうぞとお願いをする、おかげを頂く。これはもうそれまでの事なんだ。ね、○○教会の記念祭なら記念祭で素晴らしいお祭りが出けてもその皆で一生懸命願うからそのお祭りは出けたけれどもそのお祭りを境に枝が出るとか芽が出るとかいう事になっていないというのは根本的なもう所が押さえてないからだというふうに、昨日壮年会でまあ聞いたり話したりした事で御座居ますがね。
 ひとつね、それを修行中にまあいうならどんなに絶対的な的なら的を目当てにしとってもですね、始めから百発百中という事はないにしましても段々上達してまいりましたら、その間に徳を受けるいうならばその本当の所をふんまえてのおかげであるならば道必ずありであります。開ける道が必ず出るのです。その道をなら合楽の場合は教えて頂いとるのですからね、下から上へ水を流すようなという所からです、上から下へ水を流すようなスムーズないうなら放っておいても一年一年代勝りになっていくような元を作っていきたいと思うですね。どうぞ。